今回のおもいでは、先月号の「おもいで」の続きとなります。地上の人に霊感を送ったり、お仕組みを作ったりする役割が与えられ、苦悩しながら学んでいる様子が書かれています。
私は助言して下さった方の手をとって頭を下げた。私の体の中に明るい光の点が現れるとそれが輝きだした。その点は輝きと大きさを増した。それは眩しいほどに輝き、私の体よりも大きくなり彼を照らしだした。その瞬間私は眩しい光に包まれている世界に移動した。彼に別れの言葉を言う間もなかった。
そこでは何も彼(か)も全てが光輝いているように見えた。明るい色の衣を身に纏った大勢の人々が一所懸命働いていた。どの人も皆真剣な表情をしていた。
早速私に仕事の割当てがあった。地上で暮している人達の面倒を見る仕事であった。私が地上で生活していた村のすぐそばに住んでいる少年のお世話をすることになった。不思議なことにこちらの世界にいながら少年の生活している様子や彼及び彼の周囲で生活している人々の行動や思考の全てが手に取るようにわかった。彼は物凄い頑張り屋であった。私は彼の魂が成長できるように彼の人生を一所懸命応援した。彼の成長を見ていくことが私にとっては素晴らしい喜びであった。
彼の家は貧しい方であったが、彼は働きながらいろいろなことを積極的に勉強していった。せっかくの彼の努力が阻害されるようなことになるとたいへん気の毒であるので、私は彼が事件や事故に巻き込まれないよう充分過ぎるほど気を配った。彼が危険なところに近づかないように彼の心に直接その思いを送り、彼の努力と苦労が報いられるように絶えずその念を送った。そのため彼は彼自身をいつも指導している日常を越えた存在に気がつき、彼の心の中に信仰心が芽生え育っていった。
彼は青年に成長したがやはり毎日お祈りを欠かしたことがなかった。商売もうまく軌道に乗り、かなりの財産を蓄えてきた。彼は商売の時によく会う可愛い少女に恋焦がれた。彼はその少女に夢中になり、彼の考えられるあらゆる手段を使って彼女の気持ちを引くことに専念した。それを見ていて私は気が気ではなかった。彼女の父親に真向から反対されたが、彼はそんなことには挫けずに彼女の心を射止めた。彼は念願の彼女と結婚できた。彼は結婚して彼の母と三人で幸せに暮らしていける筈であった。だが彼はいつのまにか傲慢になっていた。自分の思い通りにならないことが少しでもあると妻に当り散らすようになった。彼は何でも自分の願ったとおりになるものだと思い込み、調子に乗り過ぎていい気になっていた。そして感情のままに妻を殴りつけるようにまでなった。彼の妻は泣きくずれ彼の母はただおろおろしているばかりの毎日が続いた。彼は日々だらしなくなっていったが、商売がうまくいって儲かりますようにというお祈りは忘れなかった。
私は彼が本来の進むべき魂の道に早く気がついてほしいという思いで胸がいっぱいであった。彼の導きとなるであろう人々に出会える道筋を作っておいても、彼のすることと言えばいつもそれらの人々を拒絶するか馬鹿にするか無視するかであった。私がいくら努力しても彼は全くそれを受け止めようとはしなかった。私の胸は締めつけられているように苦しかった。我々がいくら頑張ったとしても、人間の魂を向上させていくことはその本人だけでしかできないのである。彼は相変わらず商売がうまくいくように祈っていた。その世界に生きているかぎり商売が繁盛するようにお祈りすることは別に構わないことではあるが、限度というものがある。できればせめて彼の家族のためにでもお祈りしてくれる気持ちがあればよかったのであるが。私は暫くの間彼から離れて様子をみることにした。できれば彼の心の病熱を彼自身の手で冷まして欲しかった。
彼は自制心を失ってしまってお金を儲けるためには手段を選ばないというところまで落ちていった。こちらの方からの援助が減った分を彼自身の力を最大燃焼させて補い、無我夢中で金儲けのためだけに走りまわっていた。その力とは彼自身の魂を磨き他人の進歩をも手助けしていくために必要なだけ用意されていた大切な力であった。彼は『人生のどん底の辛さとそのときの人の思いやりの有難さを実際に体験させることが必要とされる段階』に自分から入っていった。私は彼が彼自身の力で底から這い上がってきて欲しいものだと思っていた。
彼は過去の行いの結果として信用が無くなってきた。彼は強引に人を陥れてまで商売をしていたので、商人をはじめ隣人にまで相手にされなくなっていた。誰も彼のことを相手にする人はいなくなった。彼の頭の中はいつも金儲けのことばかりでいっぱいになっていて、そこから全く離れようともしなかった。人から相手にされなくなると、あたりかまわず悪口雑言をふりまき、酒に溺れ家族にもっと酷い八つ当りをするようになった。彼のお祈りの内容といえばいつも『お金さえ手に入れば何でもします』ということであったが、試しに金銭の縁をつくってみたところで彼に意識の向上や変化は少しもみられたことがなかった。
彼はただ自分の欲望を満足させたいがために有りもしないもっともらしい理由をつけてお祈りをするようになり、彼が神様として崇めている者がそれに対してどうでてくるか様子を伺おうとしていた。それは彼が何をさておいても彼自身の欲望を満足させることのできるより効果的なお祈りをさがしだしたいと思っていたからであった。私はそれを見て呆れ返ってしまったが、それでもまだ望みは捨てたくはなかった。彼に彼の進むべき道を気づかせるための良い方法がどこかにあると私は信じていたかった。
彼はお金が儲からないことと人から冷淡にされることを神のせいにした。しまいには彼は神を呪うまでになった。私はもうお手上げであった。とても胸が苦しく悲しかった。彼の家族の生活は彼のせいで滅茶苦茶にされていた。彼の妻は実家に逃げ帰ったが、すぐには家に入れてもらえず扉の前で泣きくずれていた。彼の母は将来の希望を全く失ってがっくりと肩を落としていた。私は彼女が気の毒な目にあってひじょうに残念で、彼女を導いて下さっている方に対して顔向けもできないことだと思った。私はそれを考えるだけでも辛かった。私は自分の指導方法にだんだんと自信が無くなってきた。
彼は他人とつまらない喧嘩をして殺された。私は彼に直接会いに行った。彼は手につけられないほど狂暴になっていて、他人の話など聞いている余裕は彼の心には無かった。彼の魂は内側に向かって小さく暗く鈍重になっていた。彼は彼の魂に合った行くべき世界に行った。私は彼を少しも気づかせることができなかった事実をひじょうに残念に思った。自分に彼を導けるだけの力が無かったことがたいへん悔しかった。誰かが私に声をかけてくれた。
「そんなに気にする必要はないよ」「あれでは誰にもどうしようもできないと思うよ」
私に気落ちなどをしている暇は無く、すぐに次の仕事の依頼があった。こんどは女性であった。修道院のようなところで修行をしている尼僧のようである。彼女はいつも熱心に勉強をしていた。毎日の規律厳しい生活に不満も一切出さず一所懸命頑張っていた。彼女はいろいろと思い悩みながらもひたすらに真理への道を追い求めていた。彼女は毎日彼女自身の行いを思い起して常に反省し彼女の魂を成長させるための糧としていた。
彼女が思い悩んでいるその内容が私には手に取るようによくわかった。もちろん彼女は人間として生まれて魂の修行をしているのであるから、自分中心の欲望もあるし怠惰な気分に陥りそうになることもある。だが彼女は教義をただ信じ込んでその通りにしてさえいればいいというような危険な罠にも落ちず、つまらないことにも囚われずに人として進むべき道を心の中で真剣に求めていた。
私は彼女に素晴らしい考えが浮かんだときに彼女の身体を白光で優しく包み込むことにしていた。私が彼女を光で包むと彼女は身体が震えるほど感激して、その度に感謝のお祈りをくり返した。私は彼女の思考や行動を一瞬たりとも見逃さないように心掛けていたので、少しも気を休める暇などはなかった。私には精神的にかなりの疲れが出ていたが、自分のことまでは気がまわらなかった。
彼女はこちら側からの通信を無意識のうちで心の中に受け入れられるだけの準備を毎日の生活の上で欠かさず行ってきた。そのため何者かに導かれ正しい道を現在歩んでいるということを彼女自身の心の奥底から確信することができるようになっていた。彼女の進歩には目覚ましいものがあった。
彼女の魂が輝きを増しある程度大きくなった頃、私は彼女を導くための自分の力が限界に近づいているような感覚を受けるようになった。これ以上続けていると彼女にかえって迷惑をかけることになるかもしれないと思い心配になった。私がそれで気が重くなっていると、私の代わりとなる方が来た。彼と交代すると私は今までたまっていた精神的な疲れがどっと出た。暫くの間何もする気になれずぼおっとしたまま気を休めていた。
私はそこら辺りを散歩してみた。長い間ここにいたようだが周囲を詳しく観察する余裕ができたのは初めてのことであった。そこにいる人達は私も含めて二十歳前後の若者風に見え、皆誰も素晴らしい希望を胸に抱いているような明るさがあった。それぞれいろいろな仕事を分担しているようであった。
私は自分が受け持った二人に対する力不足を気にしていた。人の少ないところを選びやや低くなった草地の上に腰を下ろした。一人で自分の力の無さについて考え込んでいると、浅い籠を横に抱えた女性がこちらの方に向かって歩いて来た。その女性は白いブラウスに焦茶のチョッキを着て薄茶のゆったりとしたスカートをはいていて、抱えている籠の中には白っぽい布が入っていた。
「こんにちは」「お元気がないようですね」
「ええ」「そうなんです」
「おとなりに腰を下ろしてもよろしいかしら?」
「どうぞ」「もしよろしかったら」
その女性は私のすぐ横に腰を下ろして籠を置いた。
「どうしたんですかあ?」「悩みごとでもあるようですけど」
「はい・・」
私は自分の無力さについて思い悩んでいることを詳しく説明した。
「それはねえ」「あなたがそう思っているからなのよ」
「・・・・・・」
私は彼女の言おうとしている意味がよくわからなかった。彼女は優しい表情をして私の顔を見ていた。
「皆さん一所懸命働いていますが、いろいろな仕事があるみたいですね」
「ええ」「皆それぞれ自分でやりたいと思ったことをしてるの」
「おねえさんはいつからここで働いているんですか?」「長いんですか?」
「よく覚えてないの」「ここではそんなこと覚えておく必要もないから」
「そういえば、そうですね」
いつのまにか二人でお互いに軽く寄りかかりながら夢中で話をしていた。
「皆働いているのに二人だけここで話に熱中していてもいいのかなあ」
「いいのよ、気にしなくていいのよ」
「でも…皆に悪い気がするんだけど・・」
「それはねえ、あなたがそういうふうに思うからなのよ」
「・・・・・・?」「他の人があんなに一緒懸命働いているのに僕達だけここでのんびりしているのはいけないことだと思うんだけど・・・・」
「だから・・」「あなたがいけないことだと思うから、いけないっていうことになるんであって・・」「人は本来自由であるからして、やって良いとか、やって悪いとかいうことも元々決められてはいないのよ」「もちろんその自由っていうのは『神意における自由』ということであって、何をしても許されるという意味ではないけど・・」「皆つまらないことにこだわってしまうから、その『こだわり』から抜け出られなくなってあの地獄とかいうところに落ちたりするのよ」「まあ、その気持ちもわかるような気がするけど・・」「その『こだわり』をとりさえすればいいのよ」「だから…悪いことをしてるわけでもないし、誰に迷惑をかけているでもないから、気にしない、気にしない」
「うん、これからそうすることにする」
私の心は落着いた。私は彼女に会えてほんとうに幸せだったと思った。
二人の間の会話は弾み、止まるところがなかった。ここでは食べたり眠ったりする必要もないし、体も疲れることがないので特に休ませる必要も無い。二人は話に熱中して時間がどのぐらい経ったのかもわからなかった。話が途切れても少しも動かずその格好のまま二人で寄り添っていた。とても充実して楽しい時間であった。
誰か近寄ってきた。
「二人で楽しくお話をしているところをお邪魔して悪いんだけれども」
「お仕事のことで話があるので聞いて欲しいんですが」「でも君達ほんとうに仲がいいねえ」「君達結婚でもするんじゃないかな」
「ここでも結婚てできるんですか?」
「ああ」「ここでは二人が本当に一つになってしまうんだけど」
「一つになるって、どういうふうになるんですか?」
「僕には経験がないんでよくわからないけれども、とても素晴らしいことだそうだ」「その前に、君は覚えていないかもしれないが、大切なお役目があって生まれでなければならないんだ」
「二人はまたこうして会えますかねえ?」
「こんなに仲が良ければまた会えるんじゃないかな」「誰も二人の仲を引き裂こうだなんて思ってはいないから」
私は彼に言われた通りに生まれでることにした。彼女と挨拶をした。
「ほんとは離れたくないんだけど、お役目だから行くね」「必ずまた会おうね」
「ええ」「また会いましょうね」
二人は手を振って別れた。
管理人の所感
>私は彼が事件や事故に巻き込まれないよう充分過ぎるほど気を配った。彼が危険なところに近づかないように彼の心に直接その思いを送り、彼の努力と苦労が報いられるように絶えずその念を送った。そのため彼は彼自身をいつも指導している日常を越えた存在に気がつき、彼の心の中に信仰心が芽生え育っていった。
信仰心とは何でしょうか?
信仰心に芽生えた冒頭の男性はどうして自分勝手な行動に走ってしまったのでしょうか。
真の信仰心とは神への全託の心なのですが、依存心と紙一重です。
真の信仰心とは神と一体となった自立心、自信です。信仰心とは神(全体意識)との一体感の中にあります。全体意識の中で神との共同創造が進みます。神と分離したものは信仰心ではなく依存心です。神社で賽銭を投げ入れて拝む心です。信仰心は全体の流れに身を委ねて身を任すことのできる心です。流れは形而上にあり方向性を示すのみです。流れの全体意識の意思は意志の発露として意志による行動をサポートするものですが、最後は自分の足で歩かなければなりません。
【参 考 記 事】(カバラ:アビスの河を渡る)
この「おもいで」の場面の場合では、神とは霊界から直観を送る志摩川さんを含めた意識の全体です。霊界の志摩川さんは志摩川さんで全体意識と繋がっています。自分が全体の一員であるという安定感、自分は決して一人ではないという安寧の氣持ち、全体が一緒になって自分の舞台を形成しているという支援者を含めた信頼感です。
魂はその核の純粋な意識であれ、他の魂とは分離しています。ただし分離と言っても他と繋がっている状態の個としての存在です。
マインドを持って他と恒常的に分離して地上を歩いている人間とは明らかに異なりますが、それでも魂は厳密にはそれぞれが役割をもって学んでいて個的な存在と考えるのです。
ですから純粋な意識である魂は全体意識としての「本当の私」とは違います。魂のバックにあって魂全体を繋げている意識の集合体、ネットワーク、それが「本当の私」と認識されたら良いと思います。そこには天使も聖霊も、宇宙創造神も加えて良いのです。「私は神」であり、宇宙創造神とも確かに繋がっているのですから。
「私」の成長の舞台を作っている意識全体、役者としての私と相手役、脇役、照明係、演出家、脚本家、監督、それらを総じて全体意識と呼ぶのです。ただ理屈で分かったつもりでも、これは繋がっていること、支援されていることを経験しないと分かりません。
経験することの「理(ことわり)」が、つまり流れの意味が観えたことを「氣づき」と呼んでも良いでしょう。氣づいたら次につながる「行動」をとることです。
この信頼感を自分の中に構築してしまうと、全体意識の流れを観ようという意識の姿勢を恒常的に身に付けることができます。毎日が幸せでのんびりとしていては研ぎ澄まされた精神を獲得することができません。だから苦労が、悩みが、問題が、病気が、人には必要となる場合が多いのです。しかしその向こうには必ず明るい未来が待っています。
志摩川さんが霊界から2番目に霊感を送っていた尼僧の、
>彼女はこちら側からの通信を無意識のうちで心の中に受け入れられるだけの準備を毎日の生活の上で欠かさず行ってきた。
こういった心の準備が大切だと思います。
全体意識から自分を観ることができるようになると、行動において何か自分が失敗したときも決して恐れずに、明るく前を向いて生きることができます。
何故なら全体意識と繋がっている限り、失敗が単なる負けではなくて、成功の元としてもたらされた勝利への踏み台であることに氣づくからです。
そこで感謝の思いが湧けば、明るい未来は未来の方からやって来てくれます。
氣づきを以ってして感謝するか、無理やり感謝するか、その違いは進化の速度に影響します。
氣づきが重なるほどに、自分の舞台の演出の意味やストーリー全体が観えてきて、更に全体意識の流れ(演出とストーリー)を観ようとする意識が芽生え、未来が観えてきて、それが明るいものであるということに氣づいていきます。そして実際に未来が明るい未来として実現していきます。それが好ましくないことであろうと、悪いことであろうと、自分に起きていることはすべて神の意思が関わっていることに氣づいて行きます。
常識や人道的な尺度からは余り良いことではない、悪いことであると思われることの行為へと自分が流されても、善悪の判断をしないて淡々と流れに乗ることができるようになっていきます。
霊界で白いブラウスを着て籠をもった女性が志摩川さんに言いました。
>「それはねえ、あなたがそういうふうに思うからなのよ」
「・・・・・・?」「他の人があんなに一緒懸命働いているのに僕達だけここでのんびりしているのはいけないことだと思うんだけど・・・・」
「だから・・」「あなたがいけないことだと思うから、いけないっていうことになるんであって・・」「人は本来自由であるからして、やって良いとか、やって悪いとかいうことも元々決められてはいないのよ」(中略)「その(つまらないことの)『こだわり』をとりさえすればいいのよ」「だから…悪いことをしてるわけでもないし、誰に迷惑をかけているでもないから、気にしない、気にしない」
全体意識のエネルギーに乗れることができると、こういうことをしてはいけないという価値判断を手放すことができます。自分の価値判断が社会の善悪や評判・評価という雑音ではなくて、全体の流れの方向性へと移行するからです。人の非難などでは心が動かなくなり、全体が決めたことの流れに乗ることができます。
思考を余り使わないで直観のままに進むことができます。思考を使わないので物事の進行がどんどん流れて行って早くなります。共時性も早まります。氣づきが起きるので共時性は倍々に増えて行きます。天に意識を向けず氣づかないと、この話で初めにサポートしていた男性に志摩川さんがしたように、サポートは減り共時性も減っていきます。無駄だからです。氣づけばまた更にサポートが増え、神を、全体を信じるようになります。
また例え氣づいても、行動しなければ直観を送ることが無駄なので、やはりサポートは減ります。
恐れ知らずで、思考なく素早く行動できる人を「思考を使わないと怖くて行動ができない人」から観るととても行動力がある人と見えてしまいます。恐れ知らずと見えてしまいます。
しかし行動力のある人は恐怖心がないのかというとそうではありません。充分に、普通に怖がりなのです。ただ恐怖を超越する信仰心があるかないかの違いです。だから心の中の闇を嫌う必要はないのです。捨てる必要もないのです。超越する術(すべ)を身につけるのです。
自分が自分のメシアとなって。
例え闇に包まれて怯えている時ですら、小さな光明は必ず差し込んでいます。決して明るい未来が閉ざされているということはあり得ません。光明は差し込んでいます。それを観るか観ないかということなのです。あなたが光の子であるならば、それを確実に観ることができます。
まったく観ない場合には、
>『人生のどん底の辛さとそのときの人の思いやりの有難さを実際に体験させることが必要とされる段階』
へと進んで行きます。
「見」るという思考の次元で無意識に見ると「観」えなくなります。
現代人の氣づきの次元は思考と思考の合間にある無の瞬間に降りてくる直観にあります。ただ無を作り出そうと瞑想しても観えないのです。
思考の質を無意識から意識的な思考に上げることが大切です。
純粋で謙虚な思考です。全体と繋がろろうとする生き方、不純物をもった心を観察しながら超越した絶対的に前向きな思考と思考の合間に、絶対的に前向きな「無思考」があるのです。