(その1)よりつづく
案内されてきたところは、以前とは違って、かなり明るいところであった。そこにはテーブルのようなものがあって、自分と同年代ぐらいの人達が、十人ちかく集まっているのが見えた。
冷静に周囲を観察できるのは本当にひさしぶりのことであり、そこの人達から真剣さがにじみ出ているのが感じられたこともあって、期待に胸が大きくふくらんでいた。彼等はテーブルを囲んで何かを覗きながら議論をしていたが、私が側にいるのに気が付くと、その議論を中断して皆で私を気持ちよく迎え入れてくれた。彼等の応対は丁寧で誠実感があふれていて、私はその雰囲気にすぐにとけこんだ。
そのテーブルの真中には何かの映像が写っていて、それを見ながらいつも皆で議論を交わしているそうである。聞くところによると、そこには肉体の世界からこの世界に戻ってきたばかりの者達の姿・行動が有りのままに写し出され、それを見ながら人が本来とるべき真実の道について勉強をしているとのことである。私もはるか以前からそのことについて興味をもっていたようであって、さっそくその中に私も参加させてもらうことになり、皆もこころよく私を仲間として受入れてくれた。
そこでは先ず、この世界では各個人の考えと行動に合ったところで暮らすことになるということと、人の過去・現在・未来を通して肉体の世界も含めてすべての世界にまたがった何等かの一貫した法則性があるということを教えてもらい、実例としてあの映像を見ながら勉強していった。
もやもやしている中で滞っている人達の様子を見ると、自分達が以前活躍していた世界での常識や狭い考え方に固執していて、その想念から抜け出せずに自分で枠をつくり自分の可能性をも閉じ込めているのが手にとるようにわかった。
しかもこの世界に戻ってきた者がほとんどそこに自ら進んで入っていく。「残してきた息子が心配だ」とか「息子がもう少ししっかりしてくれれば」とか言って手を合わせて念仏を唱えているお婆さん、気持ちはわかるが彼女自身の何の解決にもならず、かえって逆に残してきた息子の足を引っ張らなければよいがとこちらが心配する。
今まで一人で店を取仕切ってきたのか元気のいい小母さん、ここでも威勢よく頑張っているがどうも世界が違うようである。あのお婆さんもこの小母さんも誠実で本当に良い人達であるが自分の殼から抜け出せない。
こちらでいくら心配しても本人達が気がつかないのでどうにもならない。
この人達は未だいい方であり、不満や怒り等が原因となってもっと暗いところに行く人達も大勢いる。
『この世界はどこも薄暗く、もともとこういうところである』なんて思い込んでしまうと、そこから抜け出ることができない。
『ちょっと変だな』と自分から気付き、光を自分から求めようとしないと、いくら救いが目の前にあろうとも本人には届かない。
この映像を通して様々な人の考えや行動を観察していると、人々を支配しているある法則についていろいろと気がつかさせていただくことが多く、議論も皆夢中になってとどまるところが全くない。
「ああいう場合にはこうしなくてはいけないのですね」「こんなことを考えているからああなってしまうのね」「こんなことをしているからダメなんですね」とか「ああすればいいのにね」とか言って、その人達のことを心配しながら、お互いに真剣に考えあっていた。
だいぶ長い間その議論に加わっていたようだったが、あるときその内容がある一つの決まったパターンの中に入り込んでしまっているのではないかと思い始めるようになった。そしてここで話合っている我々も、あのお婆さんや小母さんのように自分達の殼から抜け出せずにいて、しかも自分達自身がそのこと自体に全く気がついていないのではないのかという疑問を持つようになった。
そこでその疑問をみなに正直にぶつけてみたが、そんなことはまるで聞こえないかのように相変わらず同じ議論を続けている。不思議なことにその疑問に関することだけは誰も何の反応もなかった。
そんな疑問がでてきたこともあってか議論にも少々飽きがきてしまい、かえって周りのことに対して注意を向ける余裕ができてきた。
辺りをキョロキョロと見まわしてみると、我々がいるところは全体的に白で統一されていて明るく奇麗で清潔ではあるが、あるものといえばこのテーブルと皆が座っている椅子ぐらいのもので、かなり殺風景なところであった。
ふと隣に座っている女性に注意を移したとき、今までとは違う感覚が自分の胸の中に湧き上がってくるのがわかった
私は誰にもそれが気付かれないようにと、湧き上ってくるものを一生懸命頑張って押えていたが、だんだんその力が強くなってきて、彼女に意見の同意を求めて話しかけられたとき、ついに何も言えなくなつてしまった。私はその場にいることに耐えられなくなり、一人で席を離れ、なだらかな傾斜となっているところをみつけて腰を下ろした。
いつも気にかけていた中国人女性のことを、あれから今どうしているのだろうかと心配しながら、何一つしてやれなかつたことを思い起こした。そして私は人としての道を今踏み外しているのではないかと思い悩み、それとともにとなりに座っていた彼女を好きになってしまったと自分自身認めざるをえないことをはっきりと認めた。
一人でうつむいている私を心配して彼女がうしろの方から近づいてきた。彼女が私を気遣って元気づけようといろいろと話掛けてきたが、私か振り返ってお互いの目が合ったとき一瞬に彼女に私の心の内が伝わった。
そのとき彼女に私の思いを打ち明けた。私の予想に反して彼女からは何の反発の意思表示もなかった。二人は何も言わず何も考えずお互い寄り添ってそのままじっと座っていた。欲も雑念すらも無かったのでまるで時間が止まったようであった。今までこんなに穏やかで幸せなことは経験したことがなかった。
すると突然あたりの様子が激変した。ここは私かこの世界に入ったとき最初に連れてこられたところと同じようである。言葉を発する間も無く、あっというまに彼女が誰かに無理やり力づくでさらわれていってしまった。彼女が助けを求める声が聞こえるが私も誰かに押え付けられていた。私はすぐにはねとばしたが、まわりには大勢の者達がいまにも私に向かって飛び掛かろうと身構えていて、少しも前に進むことができない。
一瞬悩んでしまった。
『人に暴力を加えてはいけない』『ある人を助けるためには他人に乱暴してもいいのか』『人に暴行すると自分も同じめに会う』『ここで暴れるとこの場所に戻されてしまうかもしれない』『まてよこれでは自分のことだけを心配しているのではないか』『彼女がこんなめにあったのは、そもそも私が原因ではなかったのではないか』『私は地獄へ落ちてもいい、彼女を助けなければ』
私はありったけの力を込めて前へ進んでいった。
心の中が彼女のことだけでいっぱいになり他のことが何も目に入らなくなったとき、私は自分の体が上に引き上げられていくのがわかった。彼女が茫然とした様子で私の横に立っていたのでしっかりと彼女を抱きよせた。前を見上げると例の体格の良い無愛想な大男が立っていた。私を最初にあの地獄のようなところに突き落とした人物である。そのとき私は直感的に『あっ、試された』と思った。その無表情でニコリともしない厳しい彼の姿の中から優しさ・温かさがにじみ出ていて、しかも私達が彼の愛情によって優しく包まれているのがわかった。こんなに私達のことを思いやっていて下さったんだと感謝の思いが私の胸にあふれてきた。私には彼が神様のように思えた。
もと私達がいたところに戻されたが、全員あきれてものも言えないという表情をして待っていた。下で起こったことは全て全員に見られていたらしく「まったく何を考えているのかわからない」「しょうがないわねえ」女性連中にこう言われた。男性の方も何か言いたいが我慢をしているという感じであったが、いつも行っている議論への私達の参加については、反対する者は一人もなく、かえって積極的に参加を促された。
議論中も彼女は皆から非難されたショックで何も言えず下を向いていたので、彼女をかばうつもりで今までの経過や感銘を受けたことなどを全員に説明しようとしたが、いきおいよく突っ撥ねられた。彼女はここで心にひどい傷を受けてしまったようで誰とも顔を合わそうともせずにうつむいたままであった。
そのとき私は『ここでは立派なことを言ってはいるが愛がない』『法則とやらは知っているが人の事を思いやったことがない』『他人に対して優しくはするが、それは自分に返ってくることを期待した上での優しさだ』『仲間に再度入れようとしたのも、自分達にはおおらかさや気持ちの大きいところがあるということを自分達自身で納得するためだったんだ』と直感的にわかった。
私はここにいるのが嫌になるよりも、むしろそれに気がつこうとしない彼等のことを思うと悲しくなってきた。せっかくこんなに素晴らしい知識を持っているのに、なぜそれを役立てようとしないのか。ひょっとして、却って何の準備段階も無くこういう知識を得てしまうこと自体に何か弊害があるのではないか。こんなことを夢中で考えていると急に辺りの様子が変わった。
私が一人で道にたたずんでいると、美しい女性が近付いてきた。顔立ちはギリシア神話の神々の彫刻そのままで、背丈も高くすらっとしているが、奇麗な黒髪と黒い瞳をもっていて、しかも受ける印象は全くと言っていいほど日本人そのものであった。彼女は悩んでいる私を見て心配そうに話し掛けてきた。その声は真に優しく思いやりの心が満ちあふれていた。
心にレベルというものがあるとするならば、私と私を心配してくれている彼女とは幼児と大人ぐらいの差があるように私には思えたが、彼女はそんなことは全然気にもしていないようである。そこで私は今まで起ったことを遂一詳しく説明し、彼等に対する自分の悩みを打ち明けた。彼女は私の話を真剣に聞きいり、私の悩みを自分のもののように一生懸命考えてくれた。
『人の道やその法則をいくら議論してそれを行ったとしても、先人の素晴らしい行いを勉強してそれを模範にして行動したとしても、その形にだけとらわれて他人への思いやりが欠けていると、ただの物真似でおわる可能性が強い。却って自分ばかりか他人をも犠牲にすることがある』『彼女のように他人のことを自分のこと以上に思いやることが最も重要なことであり、これは普段の心掛けによって彼女のように自然ににじみ出てくるのであろう』『もし下手に知識などあるとその行為の結果にばかり心が奪われてしまって、他人のことなど目に入らなくなるだろう』などと感激しながら考えた。
彼女が言うには、下の世界にはある程度自由に行き来ができるそうで、私がもう一度説得に行ってみることになった。本人自身が真実の自分に気がつき自分を改めることに努力しないと、いくら他人が頑張っても、進歩は望めないことではあるが、あの状態でそのチャンスを与えるには説得するしか方法は無いということになった。しかし結果は散々なめにあった。説得を試みれば試みるほど、私が地獄に落とされてそこから皆を誘惑にきたのではないかと誤解されてしまい、逆に怒られて彼等の方が私を説得するはめになってしまった。
『どんなに暗く辛いところであっても、本人が進歩するための一段階であるのなら、それはその人の魂にとっては天国である』『どんなに明るく穏やかなところであっても、本人がそこから進歩しようとせずそこに留まってしまうならば、それはその人の魂にとっては地獄である』『明るいところも暗いところもそれぞれ進歩の段階の一ステップにすぎず、上に無限に続いているのではないか』と私は気がついた。
気落ちしてもとの場所に戻り、さきほどの道を進んで行くと大勢の人が行き交うところに出た。どの人も気品の漂う立派な雰囲気を持っていた。
そこで私の悩みを一緒に考えてくれた女性に会うことができた。彼女の話によるとそこの人達全員で私の悩みの解決の方法を考えていたそうで、皆私の周囲に集まってきた。彼等の言うには、その真実を少しでももっと大勢の人達にわかってもらいたい。もしできればあの世界にもう一度生まれ出てみないかと私に話を持ちかけてきた。そのとき例の無表悄な大男が現れてきて私に初めて口をきいた。「いいのか?」
私は断わらなかった。私はそこが居心地も良くたいへん気にいっていたのだが、もしその理由で彼等の申し出を断わっていたとすれば自分の我を無理矢理通すことになっていたのだろう。でも断わるなんてことは自分の気持ちからしてできなかった。
〝 管理人の所感
死後に残る意識については具体的に述べる確信を持てませんが、地上で作った記憶や概念から離れられないでいることからは、魂の純粋意識ではないことは間違いないと言えましょう。
前世からずっと地上で作ってきた意識体がその中心であり、その条件づけられた意識を霊界まで持っていっていると考えるのが順当なところだと思います。
生前にこびりついてしまった条件付けという枠の制限も、地上と同じように“気づき”がなければ脱ぎ捨てて成長することは難しいようです。しかしそこに氣づきが起これば、それは精妙な波動の世界のことであり、地上とは違いすぐにでも住む世界を移行することが可能となるのです。
死後の世界で志摩川さんが女の子に恋をして、彼女が窮地に陥ったときに無我の意識で彼女を救った瞬間、周りの景色が変わったのはそのためです。
また明るい世界への移動はさらに、それを「試された」との氣づきを呼びましたが、実は地上でも、私たちの試練のハードルのほとんどは気づきのための試験でもあるのです。これを「試し」と氣づくことは、私たちがまた一歩神の意思を汲んだことであり、神への信頼を深め一体化を促進することとなるのです。
しかし意識の変化(氣づき)において、霊界の現実は厳しいものです。志摩川さんは、
「滞っている人達の様子を見ると、自分達が以前活躍していた世界での常識や狭い考え方に固執していて、その想念から抜け出せずに自分で枠をつくり自分の可能性をも閉じ込めているのが手にとるようにわかった」と述べるのです。
死後の世界に来てはじめは、残した家族など愛する人を心配して意識を地上に向ける人などがほとんどです。これが同時に死者を悲しむ地上でも起きていることは容易に考えられます。互いの心配心という執着心がもとで停滞が起るのです。
人を心配することは「呪い」の一つの縮小版ともなります。
心配心を愛の心の変形と誤解している人は多くいますが、心配心は愛する人と自分との同一化(アイデンティティ)です。死んだ事業主が残した事業を心配するのも同じです。
このようなことは「言うは易し」の評論であり、私も多くのアイデンティティを抱えていることは否定しませんが、先ずこのような事実を知ることが必要です。
ですからこの霊界の住人が地上の様子や死後間もなくの人々の様子を見て、評論家のようにあれこれ指摘するに留まるのは、意識の進化に繋げることができません。己の心を観ることが行われていないからです。
指摘するに留まらず、自分自身がそのような執着心をアイデンティティとして持っていないかと、常に全体と自分を観察する意識を持つことが必要なのです。
自分を意識しなければそれは無意識でいるということです。無意識と無心は異なります。無意識は常に表面意識と潜在意識であるマインドに潜む邪心の暗躍の場、独壇場なのです。だから意識することが大切なのです。私たちが評論家と化してしまうのは、全体の中の自分の心を意識して観ずに、無意識に自分と全体とを分離させられ、自分の立ち位置を偽りの自分の中に閉じ込められているのです。
無心(無思考)であるとき私たちはマインドから放れて、全体から自分の心を客観的に観察することができるのです。
そのとき私たちは愛と執着の違いに気づくのです。家族への愛は、それがアイデンティティである限り、あくまで自分の価値の代替(だいたい)であるのです。
「この子は私の生き甲斐なのです」「私のすべてです」「この子が死んだら私の生きている意味がない」などとのテレビドラマでよく見る涙を誘うセリフは、自分の居場所を自分以外の子供という場に同一化することで確保しているのです。その代替品が自分と家族に限られていて他と分離していれば、それは執着であり、心配心という恐怖心を生むのです。
このような代替意識・依存意識の強い親の場合、子供が恋人を作り自分から離れれば、やはり喪失感を感じるのです。
愛は一言でいうと自他の分離なき「自他一体」の心です。
イエスのいう「自分を愛するように隣人を愛しなさい」(マルコ12章31)です。
そのように言うと、アイデンティティが同一化、一体化と訳されるならば、それこそが愛というものではないか? との反論が聞こえてきそうですが、どの次元で一体化されるかということです。
アイデンティティとはマインドによる同一化なのです。一方的自他一体、勝手な同意なき自他一体なのです。
アイデンティティとは、自分を信じられず自分を愛せないがために、他人やものに執着して自分の存在価値をそこに委ねて代替するマインド意識です。
ストーカーが元恋人を切りつけ命を奪ったり大けがをさせるケースがありますが、これはアイデンティティの典型です。恋人が自分から去ってしまったら自分の存在価値がなくなってしまうことを知るマインドという意識の足掻(あがき)きなのです。
恋人を自分と一体と勘違いしているがために執着が強いので、一体化を「自分が吸収したもの」と勘違いします。相手への思いやりが希薄なため相手をコントロールするという身勝手が始まります。真の意識の一体化は双方の自由と自由が反目することが起きません。
しかしアイデンティティに心を奪われると常に自分が出発点のため、愛も一体化も自分の都合で解釈され、全体の流れという氣づきは起きにくくなっているのです。
氣づきこそが私たちを成長へといざなうものであり、これしかないと言っても過言ではありません。常に本当の自分という全体意識から自分を観察し、自分の心を見詰めていくことが必要なのです。
話を志摩川さんの死後の世界に戻しますが、
後半で、人を評している評論家のようになったグループを志摩川さんは説得に行っています。
そして当然のように散々な目にあって帰ってきました。
いかなる場合も人を説得して一定の方向に向けることはできません。それが良き方向であってもです。
仮にうまくいったと思っても、説得された方の気持ちが変わったのではなくて、妥協したにしか過ぎません。
本当に相手をコントロールして変えることは許されないのです。相手の意識を変えるには、相手の気持ちが変わるようなヒントを与えることしかできないのです。
イエスなどの偉人が人の質問に対して答えを直接言わずに喩話で応えたのもそういうことなのです。
そのことを学んで、志摩川さんはまた地上へと生まれ変わって行きました。
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私たちは死んでなおも魂の純粋意識で生きることは難しいもので、常に意識に固定観念を持っています。同じ波動の者同士が集合する居心地良き霊界での成長は、かくも難しいものなのです。それゆえに魂は、また肉体をもって生まれ変わろうと志し、死後の意識にも常に語りかけているのです。
特に21世紀初めの地球は、宇宙の中で特別の役割を果たす祭典の時に来ています。銀河を超えた宇宙全体の進化に寄与するべくその祭典を待ちわび、今その最終段階にいるのです。
地球の人口がこんなに増えてしまい、この祭典を何も知らない世界では、単に「人口問題」として騒いでいますが、魂レベルでは地球に生れ出てこの祭典に参加することが、如何にたぐいまれな経験かを知っています。それゆえに太陽系内外の魂が今、地球に生れ出ることを選択したのです。
光の子とは、自らのカルマの解消のみならず、その祭典の中で自らを捧げて地球のアセンションに寄与することを誓い、役割をいただいて地球に生れ出ている人々です。
そういった光の子たちが繋がる光のネットワークが今、組織としてではなく、意識レベルで起き、構築されていくことが望まれているのです。