* おもいで(その15)ロシアに生まれて 1… 志摩川友重

これは「おもいで(その5)」(江戸時代から明治へかけての日本の商家)と、「おもいで(その4)」(篭をもって木の前に立っている~)の間に入るものです。突然思い出したのですが、「その5」の後、休む間もなくすぐロシアに生まれさせられた(?)ものと思っています。これは次回へ続きます。(志摩川)。

 私は大陸の北にある大きな国の東の外れの方にある小さな町に男の子として生まれた。母と子の二人だけの寂しい生活であった。私達親子は町の床屋の小さな貸し部屋に住んでいた。家族の他には親戚もなく訪ねて来る人もほとんどいなかった。
 母は毎日昼間外に働きに出ていっていて家を留守にしていた。私は母が家にいないときはいつも同年代の男の子達と広場で遊びまわっていた。
 友達との会話のなかでどうしてもわからない言葉があった。『おとうちゃん』という言葉であった。
 母親にこの言葉の意味を聞いても何も返事がなく、ときには怒られる場合もあった。でも誰かが自分の父親をつれて来て皆に紹介したことがあったので、それでやっと何となく意味がわかってきた。そして他のみんなにも父親がいることがわかった。他の子には父親がいるのに自分には父親がいない。それが子供心に不思議であった。
「ぼくのおとうちゃんはどこにいるの?」
私がこう聞くと母は寂しそうな顔をして黙っていた。母が答えようとしないので私もこの質問はいつからかしなくなっていた。

 母は私のために一生懸命働いた。私がいることだけが唯一の母の心の支えになっていた。たまに母は少々高額と思われる玩具を私のために無理して買ってくることがあった。母は私の喜ぶ姿を見て嬉しそうに笑っていた。
 母は休まず働き続けてきたので、いつからか身体が弱く病気がちになっていた。母は私に下宿先の主人である床屋の小父さんに相談するように力無く言った。小父さんはすぐに医者をつれてきてくれた。母は医者からもらった薬を毎日飲むことになった。
「もう心配することはないからな」「困ったことがあったら何でも言ってくれ」
その小父さんはこう言うと部屋を出ていった。私達親子はその小父さんに全面的に頼るようになった。
 年とともに私は大きくなっていった。私の身体はがっしりとした体格となり、知らない人にはもう大人として見られるぐらいにまでなっていた。

地球
Art by T.Shimagawa

「いつまでも床屋の小父さんに面倒をみていてもらうわけにはいかないんだよ」「おまえもここまで大きくしてもらったんだから恩返ししないといけないねえ」
 ベッドに横になったままの母は私の顔を見ながら真剣な表情をして言った。
「おまえももう働けるぐらいになったんだから‥」
「自分で働き口をさがしなさい」「ここにこれだけあるから」
 母が手を出した。その手にお金が握られていた。
「私にはおまえにこれくらいのことしかしてやれないんだよ」「世の中で生きていくっていうことはほんとうに厳しいことなんだよ」「生きてくうちには人に騙されることも何回かあるかもしれないけど‥」「どんなことが起ころうとも、人様にお役に立つようなことだけをやるんだよ」「忘れないでおくれよ」「いいかい」
「うん‥」
「これ少しだけど、何かの足しにして‥」
「うん」「でも、こんなにいいの?」
「私のことはいいから、持っておいき」
 私はできればこの町の中で職に就きたかったが、この町の人達は貧しくとても私のような人間を雇うような余裕は無かった。私はこの町を出ることに決めた。世話になった床屋の小父さんのところに挨拶に行った。
「うちに余裕があればおまえさん一人くらい雇ってやることもできるんだが‥」「それにおまえさん床屋にはむいてないようだし‥」「母さんのことは心配しなくていいよ」「俺がちゃんと責任を持ってみるから」

「すみません」「職がきまりましたら手紙を出します」「どうか母のことよろしくお願いします」
 私は部屋に戻った。
「やっぱり、町の外に出ることにした」
「ああ、そうかい」「気をつけるんだよ」
「うん」
「手紙をおくれよ」
「うん、職が決まったらすぐに出すよ」「それに毎月必ず手紙を書くから」
 私はべッドに横になったままの母の手を握った。母は目に涙を浮かべていた。
 私は当てのないまま町を出た。倹約のため馬車には乗らず寒い道を一人で歩きだした。しかし町の外に出るのは初めての経験であったので、何時ごろ次の町に到着できるのか人には聞いていたが少々心配になってきた。夜道を歩くということは即ち凍え死に行くということと同じことであった。でも何とか日が暮れる前に隣の町に辿り着くことができた。しだいにお腹が空きはじめてきたが食事は我慢をすることにした。やはりお金はなるべく節約しておいた方が良いと思ったからであった。

 私はすぐに就職口さがしを始めだした。隣町まで行けば何とかなるものと思っていたが、その町もその実状は以前住んでいた町と変わるところがなかった。かえって余所者ということでなおいっそう警戒心を抱かれることになった。あたったところ全てにべもなく断られた。それでも私は一生懸命になって職をさがした。まわりが暗くなってきたのでだんだんと不安になってきた。熱心な私の姿を見て誰かがこう言った。
「働き口をさがすんなら海沿いの大きな町に行った方がいいよ」「あそこなら人も大勢いて賑やかなところだから職にあぶれる心配はないよ」
「そこへはどうやって行けばいいんですか?」
「この町から汽車が出ているからそれに乗っていけばいいさ」
私はその人に駅までの道順を教えてもらった。その海沿いの大きな町に行こうか行くまいか悩みながら駅に向かった。その町までの汽車賃は安いものではなかった。母から渡されたお金でその片道分だったら何とか支払うことができるのだが、そのお金だけではこの町までそのまま帰ってくることはできなかった。まだ悩んではいたが、ほとんど可能性の無いこの町に残って宿代としてお金を無駄に使うのよりも、少しでも希望の持てる海沿いの大きな町への汽車賃として支払った方が、より有益にこの大切なお金を使うことができるのではないかと考えた。私は思い切って乗車券を買った。不安であったが、失敗は絶対に許されないことと肝に銘じた。

Art by Yuki Shogaki
Art by Yuki Shogaki

 客車の座席に腰を下ろした。列車は静かに動きだした。客車の揺れに身をまかせながら窓に目をやると、窓の外はもう真暗になっていた。今日一日あったことをもう一度思い起した。客車の揺れと暖房がひじょうに心地好かった。私は身体の力を抜いてほっと一息ついた。夜の厳しい寒さがしのげたことだけでもたいへん有難いことだと思った。目が覚めると窓の外が明るくなっていた。締め切った窓の隅から潮の香りが入ってきた。線路の両側はしだいに家が立込んできた。列車は大きくカーブをきりながら町の中を縫うように進んだ。そして乗客が荷物をまとめだしたころ列車は静かに駅に到着した。私は大した荷物も持っていなかったのですぐに客車を降りた。
 目の前では大きな機関車が煙と蒸気を吹き出している。私はそこで立ち止まり『こういうところで働けたらいいのになあ』なんて思いながらその機関車を見ていたが、なぜか急に改札口の方に向かって歩きだした。歩きだしたというよりも歩かされたという表現の方がぴったりしていた。
 改札を抜けると空腹感がいっそうひどくなってきた。家を出てからまだ何も口に入れていなかった。もっとお金を節約しておきたかったがもう我慢の限界を越えていた。食事のできるところをさがしまわったが駅前付近には一件しかなかった。そこは体育館ぐらいはあるかなりの大きな店で労働者ふうの男達が大勢入って飲んだり食べたりしていた。私は空いている席に座って料理を注文した。
出てきた料理は量は多かったが味も濃く油っぼいものであった。隣の客に酒をすすめられた。断わることもできず一口飲んでみたが頭がカアーツとしてくらくらしてきた。私はその人に一言礼を言うとすぐに店を飛び出した。

 港の方へ歩いて行くとその途中で『募集!海軍』の張り紙が目に入った。それを立ち止まって見ていると誰かが私にこう言ってすぐに立ち去った。
「それだけは、やめといた方がいいぜ」「人間扱いされると思ってんのならそれは間違いだぜ」
 私は道の両側にあるたくさんの店や動きまわっている男達の様子を見ながら足を進めた。手持ちのお金が無くなる前にどうしても職を見つけなければならないのでただ気は焦るばかりであった。ここは町の中心街らしく、人出はさすがに多くて避けながら歩かないと必ず誰かにぶつかってしまうような状態である。あのときの言葉どおりかなり賑やかな町であった。人込みを抜けてなぜかほっとした。周囲を見まわすとたくさんの船が見えた。
 いつの間にか港まで来ていた。目の前に見張り小屋のような木造の簡単な建物があり、そこに見覚えのある紙が貼ってあった。『募集!・海軍』と書かれていた。側には軍服を着た人達が数人立っていて労働者ふうの男達が並んでいた。
『いくら何でも歴とした国の軍隊であるからそんな酷いことはしないだろう』『給料を踏み倒すなんていうことは考えられないし』『ましてや自分の国の軍隊に生命をとられるなんていうこともないだろう』
 私はこのように思った。何よりも『職に就かないと‥』という焦りが先走っていた。私は列の後ろに並んだ。私の後にもまだ並ぶ人が結構多くいた。
 私の順番がきた。氏名や住所などが聞かれた。
「おまえ、歳の割にはなかなか立派な体格をしているじゃないか」「これだけいい体格をしていれば働き甲斐があるというものだ」「こちらもその分安心だ」「挫けずに頑張れよ」
「はい」「できれば給料を母のところへ‥」
「それは後でまとめて出す」
「後でって、いつですか?」
「港に戻ったときだ」
「それは、いつごろ‥」
「はい!」「進め!」「つぎ!」
 次の人の受付を始めた。私は狭い桟橋を歩いて船のところまで進んだ。
「こっちだ!」「入れ!」
 船底の部屋に入った。

輪宝・羯磨
Art by T.Shimagawa

「持っているものは全て出せ!」「こちらで全部預かることになっている!」
「お金もですか?」
「そうだ!」「盗るわけじゃない!」「保管しておくだけだ!」「ここで金を持っていても使い道は何も無いぞ!」「上陸するときには返すから安心しろ!」
 私は持物を渡した。母から手渡されたお金の残りもそれに入っていた。
「仕事は前からやっている者が知っている!」「よく聞いてそのとおりやれ!」「怠けるんじゃないぞ!」「交替制だから時間になるまでこの部屋で待っていろ!」
「はい!」
 機械の音がうるさく大きな声を出さないとお互いに声がよく聞き取れなかった。理由はわからないがこの部屋の人達は物静かで誰も口を利こうとしなかった。私も黙ったまま空いていた粗末な低いべッドに腰を下ろした。
 私は母のことが気になりだした。せめて海軍に入ったことだけでも連絡しておかなければならないと思った。気になりはじめるとそのことばかりが頭に浮かび、気持ちを落着かせていることができなくなった。先ほどの上官が扉をあけてそこから顔をのぞかせた。
「母に手紙を書いて出したいのですけど!」
「なんだ!」
 その上官はこちらを向いた。
「母に海軍に入ったことを手紙で知らせたいんですが!」
「だめだ!」
「でも母が心配しますから!」
「手紙なら休暇のときに出せ!」
「すぐ出さないと!‥」
「海の上をおまえのために手紙を運んでくれるやつなんかどこにもおらん!」
「えっ!」「もう出港したんですか!?」「次の港へはいつどこに着くのですか?」
「軍事機密だ!」「何も知らん!」「知ってても言えん!」
上官は面倒臭そうにこう言うと扉を閉めた。他の人達は相変わらず黙ったままで無関心を装っていた。