おもいで(その3) 再生の決意と母胎内で 志摩川友重

前回のつづきになります。再生を決意するまでの記憶、両親の死によって再生できなかった記憶と再生までの二度の母体内での記憶、そして出産後の記憶へとつづきます。

 私があの世界にすぐに生まれ出るということに承諾すると、ふと懐かしい思いが浮かんできた。

 ある時ある目的をもってあの地上に生まれると言われていたことを、こちらの世界に戻って来る度にいつも『まだかなあ』『あとどのくらいかかるのかなあ』などと考えていたのだが、今回はその「ある時」がだいぶ近付いてきているようなので、ひょっとして今回はその可能性がかなり高いのではないかと考えていた。

  気が付くと私は緩やかな曲線を描いているゆっくりした階段の中ほどに立っていた。私の側にはあの議論の場で親しくなった彼女との例の無表情な大男がいたが、彼は私達と同じくらいの背丈になっていた。

 そこで彼から私達二人がこの先どうなるのかを聞かされた。それから先ず生まれるための準備段階を経験せねばならず、その前にここで今までの記憶を消すことになると言われた。最初に彼女の記憶が消され、次に私の記憶も消された。
 私は何で今そこにいるのか何もわからないままキョトンとしていたが、すぐに誰かが私のそばに来て親切にいろいろと案内をしてくれて、生まれ出たあとでお世話になる方にも会わせてもらえた。「この方はあなたの重要な勉強の大切な先生になってくださる人です」と紹介されたので、「よろしくお願いします」と頭を下げると「お役目ならば」という答えが返ってきたが、本人自身が生まれ出ることについてはあまり嬉しく思ってはいないという印象を受けた。
 あるとき、道端で足下から私に声をかける者達がいた。小さい人のような者達が、これからのあの世界での私の行動などについて、馬鹿にしたり嘲笑ったりして言いたい放題の悪口をならべていた。何でこういう者達がいるのか不思議であったが、その悪口には勤しないで優しく明るい光りを送ってみると、びっくりして腰を抜かしたり平伏したりしたまま動かなくなり、そのままゆっくりとどこかへ消えていった。

by Shougaki
by Shougaki

 生まれるときが近くなると私は幼児くらいの体型になっていて、自分の考え方や意識そのものも幼児特有のものに変化していた。頭の中には幼児の姿になる以前の記憶は全く残っていなかった。いつも私のことを心配して指導して下さる方がいらしたが、その方の姿は筋肉質で優しくしっかりとした若者にもみえるお爺さんというイメージあった。「いよいよだよ」とそのお爺さんが呼びに来たので、私はあとについて行った。

 私は丸く小さくなって真暗闇のなかに浮かんでいた。その暗やみの中で暖かくやわらかいものに包まれていて、少しだけなら自分の身体を動かすこともできた。そこはなんともいえないほど気持の良いところであった。
 その暗闇を囲む全体がひとつの意思を持っていた。それは強烈な思考がかまわずに私の身体の中へ伝わってくるのですぐにわかった。私を包んでいる全体である者の考えや会話が直接私の心の中に絶えず入ってきた。それは何かをひどく迷惑がっていた。そこから出る想念には愛情というものはひとかけらもなく、ギスギスしていたので、私はそこで身を締付けられるような辛い思いをしていた。

 珍しく優しい想念が伝わってきたので注意して様子をうかがってみると、ひじょうに親しい誰かと深刻な会話をしているようである。そのとき直感ですべてがわかった。女性が私をおなかに宿したことに困って彼に相談していたのである。私を邪魔者扱いにしていて、私への愛情なんてものは少しも持っていなかった。私は殺されると思った。私は恐怖と怒りで自分の心を閉じてしまった。どれだけ時間がたったかわからないが、私は自分の中に閉篭ったままその女性と男性を恨み続けた。誰かが私に何回か話かけてきたようであったが、相変わらず私は暗闇の中で恨み続けた。悔しくて悔しくてしようがなかった。

 

 少しは自分の気持ちが収まってきたかなあという頃、私に話しかけていたのは私を指導して下ださっていたあのりっぱなお爺いさんであることがわかった。その方からは優しさが満ち溢れてそばにいるだけで心がほっとした、「どうかな」と聞いてきたので「あの二人は」と聞きかえした。「二人とも死んだよ」と言われると、目標が無くなったように私を閉込めてた力が抜けてしまった。それ以上恨んでもしようがない、あとは本人達自身にお任せしようと思った。ただしあのショックを受けてから私はあの世界に生まれ出るということにかなり消極的になってしまった。
 あのお爺さんが私のところにやって来た、「こんどのお母さんはひじょうに真面目だし、子供を心から欲しがっているので以前のようなことはないから」と一生懸命に私に説明をした。私は生まれ出ることに消極的にはなっていたが、このお爺さんに逆らう気は全くなく完璧に信頼していたのでそれに従うことにした。

  私はうっすらとした意識の中で、懐かしく暖かい物の中に優しく包まれている自分に気が付いた。なぜ自分がここにいるのか以前何があったのかについての記憶は全くなかったが、私がここにいること自体が皆に喜ばれているらしいということがすぐにわかった。いつも話かけられることにより、私は母のおなかの中にいることがわかるとともに、外の世界はどんなところだろうかと絶えず気になっていた。毎日優しく声をかけてくれていたので、いつしか心から頼りになるのはこの母一人になっていた。
 ただ母は真面目すぎて何でも深く考え込む癖があり、よく一人で悩んでいた。原因が他人にあったことでも、昔の過ぎ去った事でも、思い出しては気にしている様子であった。私にはその想念を受けることがたいへん辛く苦しいことであって、外の世界への希望がだんだんと消えていくとともに外の世界に出るのがとても怖くなった。
 あるときどこからかお爺さんがやってきて、「もうすぐ外の世界に出なければならない」と私に告げた。私は自分でっくりあげた外の世界感をもとに自分の中に閉篭もってしまっていて、生まれ出ることを頑なに拒否した。予定の日が過ぎても相も変わらず母のおなかの中で自分を閉込めていた。

百光遍照尊(希望の星) by shimagawa
百光遍照尊(希望の星) by shimagawa

 

 しばらくたってまたあのお爺さんがやってきた。「今度が最後だよ」「今度生まれないと元のところへ戻らなきゃならなくなるよ」「今度の機会を逃がすと今回はもう生まれ出られなくなるよ」「生まれるときはそんなに変更できないんだよ」「いいかい」そう言われると私は考え込んでしまった。
 生まれることへの恐怖は大変強かったが、『このチャンスを逃がしてはいけない』『今回生まれなかったとした場合、自分自身の存在価値が一挙に崩れてしまうかもしれない』という思いが自分の内側から涌き上がってきた。外の世界に対する恐怖に変化がなかったが、今回生まれないということ自体に底知れぬ何かを感じていた。例えていうならば自分が自分自身の絶大なる信頼をわざと裏切って自分自身から完全に見離されるような究極の怯えである。私はすぐに「生まれます」と言った。
 そのお爺さんは私が無事に生まれるための準備としていろいろと注意をしてくれた。その人がそぱにいると心が落着くのでその人から離れたくない気持ちも少しはあったが、もちろんその注意に従った。生まれでるときには息を止めておくように注意されていたが、我慢ができず気道が詰まって呼吸困難になってしまった。すぐに逆にされて背中をたたかれたので助かり無事出産となった。

  大人達が私の様子を見にきて私にいろいろと話かけるので、こちらからもそれに答えたが私の答えには全然反応しない。試しに何度も話かけてみたが誰もそれに答えてくれないので、私は皆から無視されているのかと思い大きな声で泣き出した。すると隣のべッドの同じ頃に生まれたと思われる女の子が話しかけてきた。彼女の話によると大人はこちらの思っていることが伝わらないそうである。そういえばそうだと思い、しばらくその女の子と会話をしていた。時間がたつとその会話能力もなくなるそうであるが、そのとおりとなりいままでの記憶も自然と消えていった。
 周囲の様子が変わったがここが私が住まわせてもらえる家のようである。天井から奇麗なものかぶら下がっていてそれが回転するのを見ているのがとても楽しいのだが、すぐに止まってしまう。まわしてもらおうと思ってもこの思いが届かないので大きな声で泣いてしまう。最初は天井にぶら下がっているものを回転してもらうことしか考えていなかった。
 母が外出したのだろうか、父と二人だけしかいないとき突然おなかがすいてきた。私か泣いても父はこういうことに慣れていないのでなかなかわからない。おなかがキューと締付けられていくようですごく苦しく、意思が通じないということがたいへん辛かった。

 ある日私か寝ていると男の子が話しかけてきた。彼は「自分は生まれたかったんだけど、生まれることができなかった。君が羨ましい。僕と変わってくれないか」と私に言った。私は特に考えもせず彼のことが気の毒になり「いいよ」と言った。するとどこからかお爺さんが近付いてきて「だめだ」と言いながら彼を連れていってしまった。


 いとこの年上の女の子が遊びに来たときである。「○○ちゃんはもう立てるんだね、えらいね」「友重はまだだね」と言われたとき自分が立てないことが悔しくてたまらず、自分から机の端につかまって立つ練習を一生懸命始めた。何回も失敗しながらも続けて自分の力で立てるようになった。


 ある日お客さんが二人、家を訪ねて来た。私の両親がいる前では二人とも私に優しい態度をしていたが、両親が席を外すとそのうちの一人の態度がからっと変わった。「子供を扱うなんて簡単さ」なんて言いながら私をからかい始めた。両親が戻ってくると先程の態度に逆戻りである。『何もわからないと思って調子のいいやつだ』と思って睨み返した。その状況を説明できるほど言葉が話せず悔しいので、彼等が返ってからその悔しさに意識を集中した。その後その態度の悪かった方の人間の姿を見ることはなかった。何年かたってもう一人の方に小声でそのときの状況を話したら、がたがたふるえて真青になった。怖がってそれからは家に来なくなった。


 人の言葉を理解し、話し、字を覚え始める頃になると深層の意識に刻み込まれた今までの世界での常識が通用しなくなってきた。この世界は生きるための欲を覚えそれを実践しなければ生きていけないところである。魂の向上という目的のための意欲とその努力を忘れてほとんどのひとが我欲の虜になって生きている。これからしばらくの間、私は世間とのギャップに悩みながら生きていくことになる。

四聖諦 by Shimagawa
四聖諦 by Shimagawa

 管理人の所感

 

冒頭の「近づいてきた〝ある時」とは、地球が新しい地球として建て替えられる再生直前にある今この時代、俗にいうアセンションのときのことです。昔からこのように、あの世の存在たちもこの時代に生きることにワクワクと意識を向けているということは、本当に価値ある大変な聖典が間もなく始まるのだと思ってしまいます。

 

さて、これまでの記憶、そしてこの後の(その6)で紹介する記憶などでもまた触れますが、人間の未来というものはある意味かなりの部分で決まっているということが判ります。それは一つの人生でもそうだし、1000年後、2000年後の予定までもが宇宙の全体意識の中で意図されていて、脚本化されているということです。その大まかな脚本に沿って私たちは常に自由なアドリブを小刻みに交えながら固有の人生を作り、一つひとつの役割を演じているということなのだと思います。

実際のところそうなのだと思いますが、あくまで愛の実現のための脚本と構想であり、そういった自分(個)を含めた全体意識の意図というものを認識して、その意図の実現を個々の魂下の意識が役割として果たすということだと思います。
自分の人生や未来は決まっているものではなく、今後の生き方でどうにでも変化するとスピリチャルの世界では教えられています。しかしこれは何とも書いていいのか迷うところですが、実は可なりの部分で決まっていて自分が生きてきた過去の奇跡などの積み重ねから神の意図を信じることができると、明るい未来を予測して今を生きる役割を臆することなく演じることができるという現実も一方であるのです。

この「役割」という意識を持つことができるか否かということが、ひとつに自分が光りの子として生まれているか否かの分かれ目なのかもしれません。なぜならば、この役割とは使命のことであり、個々の使命は本当の自分の故郷である全体意識から観なければ絶対に分からないからです。つまり我を忘れて全体の流れに乗って役を演じるという勇気が必須なのです。自分の使命は自分ひとりで作ったものではなくて、全体の意図の下に構想され脚本は書かれているものです。

 

あるチャネラーに自分の使命は何かと聞いて返ってきた回答が、使命をとても具体的に言い表したものであるとしたのなら、それは余りにも思慮なき狭き回答でありエゴのエネルギーに同調したものでしょう。そのチャネラーは偽物と思って間違いないでしょう。真の回答は全体意識の中に誘い入れ、謎をひも解くようなヒントとして新たな疑問を呈するものなのです。
 
またこの全体意識は*マインドという個々の自我媒体とは波長を違え、繋がることはできません。

 *マインドについて

 

 マインドについて少し説明しておきます。精神世界では「マインドとは何か」との一定の定義なくしてマインドは曖昧に語られていますが、この曖昧さ故に自我意識(エゴ)を語るには重宝な語彙ともなっているようです。エゴが生まれる意識構造にはアイデンティティ(自分の価値を代替させているもの) の大きな影響があり、これがマインドというフィールドで息づいています()

 マインドとは、簡単に言えば五感で感じたものを記憶している既知フィールドです。善悪や好き嫌いの条件付けをして温存し、感情を伴った自我活動のエネルギー源としているフィールドです。それは決して「今」と繋がることのないフィールドで、自我を無意識に動かしてしまう媒体とイメージされたらいいと思います。

 英語でマインドを動詞にすると、Do you mind… Would you mind… と相手の意思と意向を窺ったり、尋ねたりするときに使います。それは「お気に召しますか? 召しませんか?」と、マインドの本音からすると「あなたの好き嫌い(無意識に条件付けられたエゴ)に反しますか?」と尋ねているようなものなのです。

 お馴染みの「マインドコントロール」という言葉の意味は、このマインドの無意識反応の特性を利用して人の判断や意向を一定の方向に向けさせるようと仕込むことです。マインドコントロールにとっては「無意識」が常にポイントなのです。マインドは日和見主義で明確な自分というものをもちません。それ故にアイデンティティに自分を委ねます。一方で魂の純粋意識は決してマインドやアイデンティティに操られることはありません。

母親の胎内に入ってからの周りの描写と意識の描写もとても具体的です。
胎教の重要さも改めて認識します。これを読んでいて思いだした話があります。

セラピストの女性K.水田さんから聞いた話で彼女のお孫さん(女の子)が生まれた時の話です。


水田さんは娘さんが身ごもってからずっと娘さんのお腹の赤ちゃんと会話していたと言いました。

出産日も赤ちゃんから教えてもらったそうです。
娘さんには大きな子宮筋腫がありました。そんな子宮筋腫を持ちながら子供を産ませてくれる病院はなかなか見つからず、探すのが大変だったそうです。それでも引き受けてくれる病院を何とか見つけてお産しましたが、出産方法が特殊になり、出産までの間のお腹の赤ちゃんとのやり取りなども話されました。
出産方法は忘れましたが、その出産方法を赤ちゃんに許可を取ったら断られて、お母さんが困っていたこと。
その後、もう一度お腹の赤ちゃんに詳しく説明してお願いしたらOKがでたことなど、興味深かったです。何でも9カ月ごろまでお腹で遊んでいて逆子になったりしていたそうです。注意したら次の日は戻っていたりするらしいのです。
出産前にお父さんが赤ちゃんと常にコミュニケーションしていたので、出産後泣きだすと「○○ちゃんお父さんだよ」と声をかけると泣きやんだりとか、ともかく赤ちゃんはお腹の中でインスピレーションですべてを知っている様子が分かりました。
お腹の赤ちゃんとは常にコミュニケーションをしておくことが大切だと思いました。それで今は早ければ妊娠16週目あたりから男女の性別が判りますので、判ったら早めに名前を決めておくのが良いようです。
「○○ちゃん、お母さんですよ。お母さんはねぇ・・・」と名前を呼んでからお腹の中の赤ちゃんと対話するのです。そうすると生まれてきて(首が座らなくても)名前を呼ばれると、自分のことと分かって顔を向けようとするのだそうです。
水田先生の娘さんがいつも歌っていた鼻歌も、赤ん坊が泣きやまない時にその歌を歌ってあげると泣きやむのだそうです。だから歌は余り数多くレパートリーを持たない方が良いでしょう。

個人的には私の息子も小さいときにお腹の中から生まれてくるときの周りの様子を語ったことがあります。

スピリチャル的な教えからは、私たちは生まれ出るときは霊界で両親の承諾を得て肉体を持って生まれ出ると教えられたものでした。そして肉体を持つことはカルマの清算であったり、より愛の心を育むためのものという認識をお持ちかと思います。
しかし私たち一人ひとりの個の現実創造が全体意識の歯車の一つとして共にしていることから、私たちの選択が全体の運動の未来にも多大な影響を与え、未来を決めていることが分かってきます。であれば、個の人生は全体という今の中で先々の生まれ変わりの役割設定が自然と為されていることに何の疑問も持つことはなくなるのです。

 

それにしてもこの誕生前の物語を読んでいると、私たちのひとつの生まれ変わりの儀式と思われるような段取りから、私たちの個々の人生はどれもこれも疎かにできないものであり、生まれる前よりそれぞれに人生の目的が確りとあったものだと肝に銘じることができます。

人が世に生を受けるということが、今更ながら「偶然」ではなく周囲で導く存在を含めた一大計画であり、行事なのです。 生まれてから私たちはそのことを忘れてしまい、マインドの我欲のままに日々の生活を送っているのだと愕然とした方もおられることでしょう。

そしてそれを知っていながらもこの天上界からの必死の援助は、気づかずとも私たちが地上に生を受けてからも日々続いているのです。天の皆さまには、心より感謝の念を送らせていただきます。

雪暮れの森 絵:正垣有紀 

このように私たち人間の多くは本当に何も知らない存在であり、自分勝手に生きている存在であると思い知らされます。

胎児は暗いお腹の中で私たちが想像している以上に敏感に周囲のエネルギーを感じ取っていることにも驚かされます。母親の想念と親の周囲の人の想念を敏感に感じていることからそれは良く分かりました。そういった意味からは、誕生が望まれていない胎児はなんと可哀そうなことか、誕生を周りから願われ祝福され愛念を掛けられる胎児はなんと幸福なことか。
特に周囲の人は血の繋がった家族や親族であるケースが多いのですから、人一倍とその想念の影響力は大なのです(DNAと意識の関係からは血縁関係にある人はその波長が近いゆえ子に与える影響が大となる)。

愛念なき想念は、早産、難産などにも影響を与えているのかもしれません。


また最後に生まれる判断をするときの決断の想いは、私たちが生後の人生で一大の岐路に立たされたときに判断を出す直観と何ら変わりのないことが分かります。胎児の決断といえども、自分が生まれる計画という全体意識の想いに心を馳せる必要があるということです。個と全体に於いて、自分の身勝手で全体意識を拒否することが良い結果を導かないのは現世と同じなのです。試練は既に始まっていたのです。

その決断が迅速にできるように、守護霊か指導霊かとも思われるお爺さんが常に志摩川さんをサポートしてくれていました。
「生まれでるときには息を止めておくように注意されていたが、我慢ができず気道が詰まって呼吸困難になってしまった」などの細々とした指導まで行われていたのだと驚いてしまいます。

また生まれ出るとき、その指導霊らしき存在から志摩川さんの表現では誕生の決断を「説得」されるわけですが、文書から出ているエネルギーにはそういった強引さは一切感じられないのと、志摩川さんは納得して地上への誕生を決断しましたので、実体としては「勧められた」そして「解かってもらえた」というのが相応しいかと思います。
後に(その4)で触れますが、「説得」は間違ったエネルギーです。生まれるか生まれないかの二者択一の場合も説明する側の多少の思い入れはあるにしろ、それぞれの選択の善し悪しの事実を提示しながら説明して、判断は飽くまで本人に任せるというのが宇宙の法則の進化への道です。氣づきは本人の中からしか湧いてこないからです。

人の使命を簡単に教えてはいけない理由と同じです。

「人の言葉を理解し、話し、字を覚え始める頃になると深層の意識に刻み込まれた今までの世界での常識が通用しなくなってきた。この世界は生きるための欲を覚えそれを実践しなければ生きていけないところである。魂の向上という目的のための意欲とその努力を忘れてほとんどのひとが我欲の虜になって生きている。これからしばらくの間、私は世間とのギャップに悩みながら生きていくことになる」…

… との最後の文書は、言葉を覚えて思考が始まると、霊的世界の常識では生きていけず、そのギャップに負けて現世の「常識」に身を委ねます。

しかしその一方で、本当の私である全体意識から流れ出る創造力のエネルギーは、地上の常識のエネルギーが窮屈でなりません。
いま私たち地球人はこのギャップに打ち勝ち、新しい創造力のエネルギーを受け入れ、発露とする時代を生きています。
どちらを選択するか? 正にそれが今、問題なのです。自由意思とはいえ、新しい地球に行くつもりならば、もう「迷い」はあってはならないのです。